東かがわ市(大川郡白鳥町・引田町・大内町) |
■地勢 |
讃岐国の東端に位置し、西は寒川郡、東と南は阿波国に接し、北は瀬戸内海に面する。東部を馬宿川、西部を湊川が北流する。旧大川郡のほぼ東半分を郡域とした。 |
■中世 |
鎌倉時代後半には大内郡全域が庄園と化し、皇室領大内庄となった。讃岐国唯一の郡名庄であった。室町時代から戦国時代初期にかけては、守護細川氏の守護代安富氏の支配下にあったが、その後、阿波三好氏の勢力が伸び、天正年間(1573―92)の土佐長宗我部氏の阿讃侵攻に際しては虎丸城(旧大内町)で攻防戦が行われた。天正12年(1584)に長宗我部氏の支配下に入るが、羽柴秀吉の四国平定がなると天正15年(1587)に生駒親正が讃岐に封じられ、引田城に入部した。 |
■近世 |
寛永17年(1640)に生駒氏が改易されたのち、大内郡は1年半伊予西条藩主一柳直重の預地となったが、寛永19年(1642)に松平頼重が東讃12万石の高松藩主となり、以後明治維新まで松平氏が支配した。 |
■産業 |
近世初期の塩田として松原浜と安戸浜があり、塩のほかに産業として綿と砂糖があった。郡内で湊として栄えたのは引田浦(馬宿浦が隣接)と三本松浦で、近世後期には砂糖の重要な積出港となっていた。高松城下から東へ海岸沿いに通る浜街道(志度街道)と南の内陸部を通る長尾街道が町田村(旧大内町)で合流し、引田村を経て大坂越を通って阿波へ向かっている。また三本松村から白鳥村を経て南下し、与田山・入野山から大楢(以上旧白鳥町)を通って阿波へ通ずる道は、物資を運ぶ歩荷の道であった。 |